ご無沙汰で~~す🌺
今回の本は❤
久々に時間をかけて・・・
自分の生き方を見つめながら・・・
読み進めることができたように思います✨
🎵自分のための人生🎵
ウエイン・W・ダイアー著
ダイアーがこの本で言っている主眼は
大きく分けて二つあるそうです。
💮1つ・・・人生のあらゆる問題はすべて自分で選択、解決することができる。ということ。
💮二つ・・・今日一日を徹底的に大切に生きることである。それはいい意味での刹那主義(過去や未来にとらわれず、現在の「このとき」に全力投球し、精一杯楽しむ)と言ってもよいということ。
🌿「幸運」と違って「幸福」は自分で選びとることができる🌿
🌺「幸運」は外から来るものである。
宝くじを買って当たるというのは幸運である。
しかし、それが幸福になるかどうかはまったく関係がない。
宝くじにあたったために遊び癖がついて破滅したという例は、数えあげればきりがない。
それに反して、宝くじにあたらなくても、
幸福になることは心がけしだいでいくらでも
できるのであって、
幸運は選択できないが、幸福は選択できると考えるべきである❗
自分の感情を人のせいにするというのはまさに間違った選択であって、すべての感情は自分の考え方、見方を深めることによって全部選択できるものである。
💮感情を人のせいにしないということが
「自分のための人生」
の一つの出発点になる❗
他人の評価を「気にかけない」生き方🎵
自分の考えを自分で選択でできるようになれば、その人の目には自分の意思で自由になることと、自分の意思では自由にならないことがはっきりとしてくるだろう。
自分の意思で自由にできることで、思うようにならないことがあったら、これは反省して自由に選択したらいい。
ところが、自分で本当にどうにもならないことがある。
たとえば、
人の評判とか評価は本人の自由にならないものである。
自分を人がほめてくれるかどうかは、根本的なところは相手の勝手である。
自分に対する他人の評価がまったく気にならないということは、普通の人にはありえないけれども、いずれは自分の自由にならないのだという悟りをもたなければ、重い、軽いの差はあっても、結局は神経症のようなものにならざるをえない。
自分の意思で何とかなるのは、他人の評価に対する自分の態度だけ
だと悟ったときに、真の自分の生活が始まるのだと言う。
やりたいことをやれるのは、今しかない🎵
ダイアーの、もう一つの特徴は
「現在を尊べ」
ということである。
それは、「生きる」のは「今」しかないのであって、あとは過去において生きたという記憶と、これから生きるであろうという可能性なのである。
過去についてはジタバタしても始まらない。自分で左右できないことなのである。
どうにもならない過去をクヨクヨ悩むのは、自分の意思で自由にならないことを自由にしようとする、愚かなもがきであると悟るべきである。
また未来も、究極的には自分によって左右できないものである。
われわれが一番大切にしなければならないのは現在である。
やりたいことをやらないで死んだひとがいかに多いことか。
それを考えると、
今やれるのにやらないで延ばすというのも、現代に特有の誤った考えなのである。
もしもわれわれが自分で選択した人生を送る覚悟を決め、
生きているのは今日、現在なのであるということを反省する機会を持つと、そこに必然的に自己実現が成される。
自己実現が進むと、その当初予想しなかったことが起こってくる。
この本の中でなるほど・・・というところは
山のようにありました❗
7章の
「状況打開」の柔軟思考
なぜ「他人の評価」が気になるのか
というところの
☆白黒つかないこと
「なすべきこと」を自分の人生に組み入れる傾向に対して、臨床心理学者のアルバート・エリスがつくったうまい表現がある。
それは「自慰行為」ならぬ「自縛行為」である。
「ねばならぬ症候群」といってもいいかもしれない。
他にもっとベターな行動があるかもしれないのに、「こうしなければならない」と思うやり方で行動している自分に気が付いたときは、「ねばならぬ症候群」にかかっているということ。
あなたの人生の大部分は「なすべきこと」によって決められてはいないだろうか。
同僚には親切に、パートナーには協力的に、子供には力となり、いつも一生懸命働くべきだと思ってはいないだろうか。
こういう「なすべきこと」がうまくいかないと、自分を責め、緊張と破綻をきたしてはいないだろうか。
おそらく、こういう「なすべきこと」は自分で決めたものではない。
もし、これが実際には他人にとっての「なすべきこと」であり、自分はそれを借りてきているだけとしたら、まさに「自縛行為」だ。
一方、「なすべきこと」があるのとちょうど同じだけ、「なすべからざること」も存在する。
たとえば、無作法にふるまうべきではない、腹を立てるべきではない、分別をなくしてはいけない、ばかはいけない、幼稚ではいけない、下品ではいけない、落ち込むべきではない、他人をイラつかせてはいけない・・・
など、他にもたくさんある。
しかし、こんな自縛行為にふける必要はまったくない。
落ち着きがなくても、理解力がなくてもいっこうにかまわない。
自分が望むなら威厳などなくてもいい。
誰もあなたの点数をつけたりはしないし、言われた通りにしないからといって、罰したりしないのである。
しかも、どうがんばってもすべて他人の期待どおりの、理想の人間には絶対になれない。
つまり、そもそも間違っている期待に添うことはできないわけだから、どんなものであれ「なすべきこと」は緊張感を生まずにはいられない。
この緊張感は、たとえば、あなたが威厳がなくて、非協力的で、軽率だから生まれるのではない。
「○○すべき」という重荷から生まれるものなのである。
R・W・エマソンは「文学の倫理」にこう書いてる。
人間は、自明の理という挽き臼をせっせとひく。が、そこからは入れたものしか出てこない。
けれどもしきたりを捨て、代わりに自発的な考えを取り入れると、その瞬間から、詩、ウィット、希望、美徳、学識、逸話など、あらゆるものが群がり寄って人間を助けてくれる。
なんというすばらしい考えだろう。
しきたりに従っていると、間違いなく、私たちはいつまでもずっと変わらない。
だが、しきたりを投げ捨てると、世界を自分の思うとおり創造的に動かすことができるのだ🎵
しきたりだらけの人生に答えを求めようとしてはならない。どう歌うべきか、などということは気にしないで、
自分の好きなように自分自身の幸せの歌を歌えばよい。
心にわだかまりのない人たちは、今ここにない降伏を追い求めたりはしない。
いま、生きていることがすなわち、彼らにとっての幸福なのだから。
最後に・・・
幸福を見つけようとすることが、何よりも幸福から遠ざかってしまうことなのである。
歴史家のウィル・デュラントは、知識の中に幸福を見出だそうとしたが、見つけたものは幻滅だけだったと書いている。
彼は次に旅行の中に幸福を求めたが、退屈しか見出だせなかった。
さらに、富の中に求めたが、仲たがいと心配しかなかった。
著述の中に幸福はないかと探したが、疲労しかなかった。
ある日彼は、眠っている赤ん坊を抱いた女性が、小さな車の中で夫を待っているのを見かけた。
しばらくすると、夫が列車から降りて近づいた。そして、その女性にやさしくキスをし、次に、その赤ん坊にも、眠っているのを起こさないように、そっとキスをした。
それから、その家族は車で去っていってしまったのだが、後に残されたデュラントは、そのとき、はたと幸福の実体に思い当たった。
向きになって幸福を追求するのをやめてみたら、「日常生活のすべての営みが幸福を含んでいる」ことに気がついたのである。
「今」というときを最高に充実させることによって、あなたも、幸福の傍観者ではなく、幸福な人間の一人になれるのである。
自分を縛る思い込みから解放され、自由になるというのは、考えただけでも素晴らしいことである。
そしてあなたにその気さえあれば、ただちにその道を選ぶことができる。
いかがでしたでしょうか?
今この瞬間❤
わたしは最高に幸せである💗
今この瞬間❤
ここに存在できていることが
幸せなのかもしれませんね。
皆さん❤
いつもありがとうございます💗(*´∇`*)
最近本を読む時間がないくらい・・・
この現実をたのしんでいます✨
夜更かしして・・・思う存分星空を眺めたり・・・
(流れ星を3つも見れた❤)
美味しいものを沢山食べて・・・
行きたい🎵ところへ行ったり☆
欲しいものを一杯買って(*^-^*)
泣いて❗笑って❗色々あるけど・・・
今ここ💗最高😃⤴⤴
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