再び《Joy 喜び》という本より?

再び、「Joy  喜び」という本のなかより、

うしても伝えたい内容がありました?

 

本分より?

「もう十分だーー私はもう努力しない

これがゴーダマ・仏陀の覚醒の仕方だった。

と、ちょっと不思議に思える感じでしたが、

最後まで読み進めるうちに・・・(*´∇`*)

 

ではではその内容を

ちょっと紹介してみようとおもいます。

 

彼は最初のアメリカ人だったに違いない。

なぜならば、彼は幸せを追及していたからだ。追及するために彼は王国を捨てた。

彼は多くの事柄の先駆者だ。

彼は最初のドロップアウトなのだ。

あなた方、ヒッピーは多くの物を捨ててはいない。何かを捨てるには、まず、あなたはそれを持っている必要がある。

仏陀は持っていた。そしてそれまでの誰より多くを持っていた。

彼は王国中のすべての美しい女性に囲まれていた。だから満たされない欲望は一つもなかった。

彼は最高の食べ物、何百人と言う召し使い、

広大な庭園を持っていた。

仏陀は言った。

「私はそのすべてを放棄する。私はここには幸せを見つけられない。私はそれを見つけよう、私はそれを追及しよう、私は幸せを見つけるために必要なすべてのことを行おう」

そして6年の間、仏陀は誰にでもできるすべてのことを行った。彼はあらゆる種類の教師、マスター、学者、賢者、哲人、聖人のもとに行った。

そしてインドはあなたが探し求める必要のないほど、こうした人々に満ちている。

もしあなたが彼らを探さなければ、彼らがあなたを探すだろう。

そして特に仏陀の時代には、本当にそれが頂点に達していた。

しかし6年間の多くの努力ーー禁欲、断食、ヨガの実践ーーの後も、何も起こらなかった。そしてある日・・・

 

ナイランジャナーは小さな、あまり深くない川だ。

仏陀はあらゆる方法で断食し、禁欲生活を実行し、そして自分自身を痛めつけていた。

そしてあまりにも弱ってしまい、ナイランジャナー川に沐浴のために入った時、彼はその川を渡ることができなかった。

その川は小さかったが、彼はとても弱っていたので、川岸のそばに垂れさがっていた木の根につかまって、やっとそこに立っていることができた。そうしなければ、川は彼を流し去っていただろう。木の根につかまっている時、彼にある考えが浮かんだ。

「あの哲人たちは、実在は海のようなものだ、と言っている。もし実在が海ならば、そうだとすれば、私が何をやろうと正しくはない。なぜならば、もし私がこの細い川、ナイランジャナーさえ渡れないのであれば、どうやって私は実在の海を渡るというのだろうか?私が何をやってきたにしても、私はただ私の時間、私の生、私のエネルギー、私の身体を無駄にしてきたにすぎない」

やっとのことで彼は川から上がり、そしてあらゆる努力を捨て、その木の下に座った。

 

その夕べーーそれは満月の夜だったーー6年間で初めて、彼はぐっすりと眠った。

なぜならば翌日すべきことも、行くべきところも何もなかったからだった。

何の訓練も何の運動もなかったーー翌日、

朝早く日ノ出前に起きる必要すらなかった。

翌日、彼は寝たいだけ寝ることができた。

初めて、彼はあらゆる努力、探求、探索、追求からの完全な自由を感じたのだった。

 

もちろん、彼は非常にリラックスして眠り、朝、彼が目を開けた時、最後の星が消えるところだった。最後の星が消えると同時に、

仏陀もまた消えた、と言われている。

一晩中の休息、平和、そして未来も目的も

すべきこともない・・・初めて彼はアメリカ人ではなかった。

横になり、急いで起き出しもせず、彼はただ、これまでの6年間がすべて悪夢のように見えるのを知った。しかしそれは過ぎ去った過去だった。星は消え、シッダルタは消えた。

 

これは至福、または真実の体験だった。

超越の体験、あなたがずっと求める続け、

しかし求めているからこそ見失っていたすべての体験だった。

仏教徒でさえ、この物語の重要性を理解することはできなかった。これはゴーダマ・仏陀の人生でもっとも大切な物語だ。

 

これと比較できるものは何一つない。

 

しかしあなたはビックリするだろう・・・

私は仏教徒ではない。そして仏陀に無数の点で賛成しない。

しかし、私は25世紀の間、この物語を重要だとし、焦点の中心に据えた最初の男だ。

なぜならば、これは仏陀の覚醒が起こったところだからだ。

しかし、仏教の僧侶や坊さんは、この物語を話すことさえできない。

もしこの物語を話したならば、

彼らはどんな目的を持つのだろうか?

彼らは何をしているのだろうか?

彼は何を、何の修業を、何の祈りを教えているのだろうか?

もしあなたがこの物語を話したら、

仏陀があらゆる種類の宗教的な馬鹿げた事柄を行うのをやめた時にそれが起こったと教えたら、当然、人々は言うだろう。

「それではなぜ、あなたは私たちに宗教的な馬鹿げたことを行うように教えるのですか?ただ、いつかそれを捨てるためですか?そしてもし、私たちがそれを最後には捨てなければならないとしたら、そもそも一体なぜ、それを始めなければならないのですか?」

 

この物語に重きを置かない僧侶を納得させるのは難しいことだろう。彼らのビジネスのすべてが、彼らの職業全体が壊滅するからだ。

 

《至福はまた、まさにそのように降り注ぐ。

真実もまた、そのように降り注ぐ。

あなたはただ、座り、何もせず、待っているーーゴドーを待つのではなく、ただ待っている。何かを特に待つのではなく、ただ待ち、待っている状態にいれば、それは起こるのだ。

そしてそれは起こる(happen)のだから、幸せ(happiness)と呼ぶのは完全に正しいのである

 

いかがでしたか?