💗シュリ・アーナンダマイー・マーの生涯と教え💗

これは一体どういう本なのだろうか?

 

と思えるような本が。

 

私のもとへとやって来ました🎵(*´∇`*)



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💗シュリ・アーナンダマイー・マー💗

 

全く初めて聞く名前の人でした🎵

 

読んでみて思いました(*≧∀≦*)

あっ、これは私のための本でした🎵

 

もしかしたら、もう一人の私(あなた)のための本でもあるかなぁと思ったので

 

長いですけど・・・・

時々ケータイ落としながら・・・

 

やっと打てました🎵(*´∇`*)

 

 

 

序文より(*´∇`*)

 

「木ーー例えば、美しく力強いブナの老木が、そっと静かな足取りであなたに歩み寄ってくるところを、ちょっと想像してみてください。あなたはどのように感じるでしょうか?

 

(私は、気がふれたのだろうか?)または、(おそらく、これは夢をみているのかな?)

などと、自問することでしょう。

 

結局のところ、あなたはこれまで知らなかった、現実の新たな次元に入ってしまっていることを、認めるしかないでしょう」

 

これはドイツの小説家メリタ・マシュマンが、アーナンダマイー・マー(至福に浸る聖母)から受けた第一印象を、要約してかたったものだ。

 

アーナンダマイー・マーは

ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカナンダ、オーロビンド・ゴーシュ、ラマナ・マハルシ、

 

そしてパラマハンサ・ヨガナンダのような、現代インドにおける偉大な聖者の中に、当然含められるべき霊的巨人である。

 

 彼女の人生は、インドに宿る不変な霊的力の、雄弁な証となるものだ。

 

進歩という概念が、もはや絶対的な真理だとは思われず、また、「現代価値観」のすべてが、苦しみに満ちた再検討を施されているようなこの世界に対し、彼女のメッセージは、特に相応しいものである。

 

 

アーナンダマイー・マーは、現代文明の病を、「過度の世俗化(宗教からの離反)」と診断する。そして、我々の深刻な病を癒せるのは、工学者、社会学者、心理学者ではなく、

 

「魂の医師」

 

であることを示唆している。彼女は我々の視点と態度に対して、

 

外交性から内向性へ、

物質主義から霊性へ、

人間中心から神中心へ

と、

 

強烈な革命を処方する。彼女の全く妥協のない超越的な視点は、問題解決に関心をもつ実用主義のアメリカ人にとって、真のショック療法である。

 

彼女は人口増加や環境汚染、人種的偏見、政治的緊張、経済危機等には明確な関心を示さない。

 

しかし、一人の信者の言葉を借りて述べるなら、アーナンダマイー・マーという存在の目的は

 

「・・・ある力の存在を明らかに示すことであり、

 

その力は変質をもたらす影響力によって、

 

醜悪の中から美を、

争いの中から愛を、

 

常に創造し続けています。

このような力こそ、シュリ・アーナンダマイーなのです。

 

彼女がこの紛争の世界に、平和と調和をもたらしますように」

 

・・・・・私は、アーナンダマイー・マーの現前に案内されたとき、人生で初めて、

 

まさに聖なるものの化身である、「全く異質」な誰かに遭遇したと感じた。

 

だがアーナンダマイー・マーは、とても親しみやすく、近づきやすい人でもあった。

 

・・・・このように始まる序文ですが、なんとなく感じてもらえたのではないでしょうか?

 

 

 

ここからはアーナンダマイー・マーが回想している内容です❗

 

 

小学校への出席が二年にも満たない、という経歴では、アーナンダマイー・マーが「教育を受けた」と考えるのは難しい。

彼女は書くことができるのだが、いつもは、本にサインをするとき、

 

一つの点しか書かない

 

そして、サインをするとき、次のような見解を述べることがある。

 

「この中に、すべては含まれています」

 

また彼女は、決して本などを読もうと思わない。従って、同じように「教育を受けていない」ラーマクリシュナ・パラマハンサと同様に、

 

英知は、本の学習とは無関係であるという事実を証明している

 

ーーー真実は、あまりにショックが大きすぎて、大半の学者には受け入れられないものだ。

アーナンダマイー・マー自身も、かつて、こう明言している。

 

「もし誰かが、本当に神を、神のみを求めるなら、その人は、自身の心(ハート)に自分の本を持つでしょう。その人にとって、印刷された本など必要ではないのです」

 

 

全存在の一体性を自覚したマーは、妹が16歳で亡くなった時にも、生・死のリーラに全く影響されなかった。

 

「何が起ころうと、それは、たいしたことではありません」

 

「すべてのものが、適切なときに適切な状況の下で展開するこの宇宙のリーラに、マーは完全に調和している」

 

「起こるべきことは、何であれ、起こるでしょう」

 

 

 

 

 

💗アーナンダマイー・マーの人と教え💗

 

のところで・・・とても大切な内容がありました🎵

 

深すぎてわからないかもですが❗

 

なんとなくで感じて欲しい💗

 

 

・・・・なぜ多様性があり、なぜこのリーラが続いていくのかを限定された言葉で説明するのは、実際には出来ないことである。

 

 

時間と空間を越えている一者は、同じく錯覚の側面である、原因と結果を越えている。

 

このように「なぜ」という問い、それ自体がマーヤーの一面である。時間と空間、原因と結果にもとずいて働く心には、決して究極の実在を据えることは出来ない。

 

従って、直接に一体性を経験した、すなわち、多様性を越えたときのみ「なぜ」を越えた真実、究極の真理を知ることが出来るだろう。

 

この世界は矛盾よりなっており、その中に巻き込まれている限り、世界を理解することは出来ない。

 

しかし幸運なことに、錯覚のヴェールを創造している一者は、錯覚を絶滅する方法を我々に与えてくれてもいる。

 

そして結局、錯覚を克服する手段とは、錯覚そのもの(の本性を見抜くこと)なのだ。

 

人は心を惑わされ、この二元性の世界が実在で、その中にしあわせを見つけられると信じている。

 

しかしこの世界はこうぞうぶつであるがゆえ、本物の、つまり永続する幸せを与えてはくれない。世界という単語自体が、その本性のヒントを与えてくれる。

 

それは不断の動き、絶え間ない変化、来ることと去ること、健康と病気、名声と不名誉、

富裕と貧困、誕生と死である。

 

永続する満足、安心という「理解を越えたもの」を、この世界に期待することなど出来はしない。

 

人はこの世が本当の故郷ではないことを、悟らねばならない。

 

「人が異郷の地に住むときに、どうして、よそ者の宿命である苦難から逃れられるでしょうか。

 

あなたの故郷は、嘆きと悲しみ、暴力と憎しみ、離反という問題がなく、光と闇という反対物がどちらも存在しないところです。」

 

異邦人、訪問者である人は、ここで、ぐずぐずと滞在を延ばすべきではない。

 

人は無知ゆえに、名声、富裕、権力、愛情のどの形であれ、ここで幸福を見つけられると信じている限り、死に際して、さらに学ぶために、再びこの世へ帰って来なければならないだろう。

アーナンダマイー・マーの上手な表現を借りれば、この世に愛着を持つことが、自動的に「往復切符」を用意することになるのだ。

 

 

アーナンダマイー・マーが、人々に一者への帰還の旅へ乗り出すよう促すからには、人間は、自身の努力により上手くその旅を始めるための、自由意思を持っていると、彼女は言っているのだろうか?

 

 

我々がよく知っているように、神学者らは何世紀にもわたって、この厄介な問題を巡り論争している。

 

つまり、矛盾した響きかも知れないが、自由意思とは究極の意味において恩寵の一部なのだ。

 

例えば、彼女は次のようにはっきり述べている。

 

「本当に、この世のあらゆる事柄は、意志の力によって成し遂げられます。もし誰かが、決意と忍耐を持って理想を実践することが出来るなら、その人の活動は、霊感に導かれるでしょう。このような活動家は、神の力に支援されます」

 

我々が無知である限り、些細な事柄においてのみ、どうやら自由であるようだ。

我々は、自分の弱点、無能さに束縛されていて、自分の気分、切望、衝動の奴隷である。

 

アーナンダマイー・マーは、平均的な人間の自由を、ロープで杭に繋がれた、雌牛の自由にたとえている。

 

ロープの限界内で、雌牛は自由である。しかし牛がロープから逃れることが出来るなら、もちろん完全な自由を手にいれることになるだろう。

 

同様に、人は正しく霊的な努力をすることで、この見せかけの幸福からなる制限された世界に、自身を縛り付けている錯覚のロープを断ち切り、自身を得ることができる。

 

通常、宇宙では、本当にカルマの法則が働いている。従って、ひとは、

 

「種を蒔いたら、刈り取らねばならない。」

 

 

必ず一つの人生で、とは限らないが、カルマはいつか、その人に追い付くことになる。

 

すべての存在がお互いに影響しあっているのだから、そのすべての行動、思考、感情は、この宇宙に痕跡を残すことになる。

 

 

宇宙は、これらがインプットされた巨大なコンピューターにたとえられる。コンピューターは、その次に、これらの行動、思考、感情を結果に変換し、その効果を、さまざまな「入力」の相互作用の結果に応じて、

 

ある特定の時に、特定の形で、我々が経験することになる。

 

このように、発生したカルマはすべて、適切なときに熟して結実する運命にある。

 

何度も繰り返し、アーナンダマイー・マーは、次のように明言している。

 

「それが良いことでも、悪いことでも、起こることのすべては、ーーもし、それが起こるよう定められたものならーーある種の力の、神秘的な相互作用を通して起こります。」

 

また、

 

「起こることは何であれ、起こる運命だったのです」・・・・

 

 

まだまだ続くのですが❗

 

 

最後に一ヵ所のせておきます✨

 

あるアメリカの婦人が、とても幸福な結婚生活を共にしていた夫を失った、と

 

アーナンダマイー・マーに話した。夫が亡くなり、その婦人の人生は無意味なものになってしまった。彼女に答えて、アーナンダマイー・マーは次のような説明をした。

 

人の愛着というものは、すべて、いつかは捨てなければならない。

神は、人がどのような世俗の囚われをもつことも望まない。

 

人が錯覚の世界にあまりにも夢中になりすぎるとき、本当の故郷を思い出させるために、

 

愛着の対象はその人から取り上げられることになる。

 

「何かに依存している幸福、それが人、お金、安楽などの何であれ、長続きはしません・・・

 

神だけが、永続する満足を与えてくれます」

 

 
なんか切ないです・・・

 

 

愛着の対象が取り上げられてしまうんですね(T_T)

 

あらゆるものを手放して・・・

 

結局は強制的に❗

 

そうなってるのかなぁ・・・

 

求めるがゆえに・・・

 

答えのない世界😅

 

ありがとうございました(*´ー`*)