💕あなたの魂を照らす60の物語💕 OSHO 著
いつもありがとうございます💕
なんか久しぶりにまた
深良い本に出会えました(o^^o)
というか、前からあったのですが
やっと読めたというか(o^^o)笑
私が結構好きな系です(o^^o)笑笑
タイトルからすでに好きかも💕笑笑
では早速
というか、
いっぱい伝えたいところが満載すぎて
全部読んで欲しい感じです💕
がその中にあってこの目次
⭐️手放すことを手放す⁉️
というところから書き出してみますね。
・・・・
裕福な男はマスターのところへ行き、こう言った。
「私は迷っている。燃えさかる火の中で焼かれているようだ。私は平穏でいたいのです」
マスターは尋ねた。
「それだけの富や評判、権力や能力をもってしても、平穏ではないと言うのか❓」
「そのとおりです。いくら富があっても、その中には平穏はないということは痛いほど分かりました」
「それならば、あなたが富を奪った人へ全てを返しなさい。それからまた、私のところへ来なさい。質素で貧しくなってから来るのだ」
裕福な男はそのとおりにした。彼はまたマスターのところへ行き、
そしてマスターは尋ねた。
「今度は何だい❓」
「私にはもうあなたしか頼る人がいないのです」と彼は言った。
とてもおかしなことに、マスターは怒ってさえいるようだった。
今は貧しくなった裕福な男を家から追い出し、ドアを閉めた。
その夜は暗く、森は静まりかえっていた。
マスターの住む家以外には、身を寄せる場所はなかった。
裕福な男は、自分は素晴らしいことをしてからマスターのもとへ行ったと思っていた。
しかしこの仕打ちは何なのだろう❓
富をいくら積み上げたところで、それは無意味だと気づいていたが、富を手放すこともまた無駄なことではないか!
その裕福な男は、誰にも助けてもらえずに木の下で一夜を明かした。
今彼には頼れるものも、友人も家もなかった。
富も権力もなく、何も所有していないと同時に手放すものもなかった。
しかし、朝目覚めた時、彼の心は言葉にできないほどの平穏に満ちていた。
思考を支えるものが何もなくなると、彼は難なく実在が支えてくれていることに気づいたのだった。
男はマスターの足元に駆け寄ると、マスターも彼の足元へと膝をついた。
マスターは彼を抱擁して言った。
「富を手放すことはそれほど難しくはない。しかし、手放すことを手放すことはとても難しい。
しかし、手放すことを手放すことができた者だけが、本当に富を手放すことができるのだ。
世界を手放すことができても、マスターを手放すことは難しい。しかし、マスターを手放すことができれば、さらに偉大なマスターに出会える。
富であっても富を手放すことであっても、良心の呵責であってもプライドであっても、世界であっても世俗世間への別れであっても・・・結局のところどんな心の支えであっても・・・神性への道の障害になる」
「どんなものであっても心の拠り所がなくなればすぐに、それを超える拠り所が見つかるだろう。
富であっても、宗教であっても、拠り所を探している限り、それはエゴを守るものを探していることになる。
拠り所を手放せば、支えてくれるものも守ってくれるものもなくなる。そして思考は、自分の基本的実在の中に沈み消えていく。
それこそが平穏だ。それこそが救済だ。そしてそれが、解脱なのだ。ほかに知りたいことがあるかい?」
今この時から、富のマスターでも貧しさのマスターでもない男は言った。
「何もありません。何かを所有するという考え方は全くの間違いでした。そのことがまさに私を迷わせていたのです。
手に入れる必要のあるものは、すでに手に入っていました。
所有は、私が迷いこんだ所有競争の中だけのもので、本当は何も失うものはなかったし、手に入れることもなかったのです。
今、私は平穏を望むこともなければ、解脱さえも望むことはありません。
平穏も、信心も、救済も、すでにここにあるのですから」・・・。
⭐️お互いを知ること
朝から晩まで、私は何百人もの人たちが、お互いの悪口を言い合っているのを目にする。
私たちが相手について判断を下すことのはやいことよ❗️
実際には、誰かのことを判断するほど難しいことはない。おそらく、神を除いて誰も他人を批判する権利を持ち合わせていない。
なぜなら、神以外の誰が人を判断するために必要な忍耐を持ち合わせているというのか❓
取るに足らない平凡な人間が❓
私たちはお互いを理解しているのだろうか❓
非常に関係の近い人でさえ、本当にお互いのことを理解しているのだろうか❓
友人同士でさえ、お互いを分かり合えず、見知らぬ人になってはいないだろうか❓
だが、私たちは知らない人のことですら理解していると主張し、他人についてあまりにも早く判断を下す。
この性急さは、非常に見苦しい。だが、他人のことに思いを巡らせてばかりいる人は、自分のことを考えるのを完全に忘れている。
こんな風に性急であることは全くもって無知なことである。なぜなら、知識があれば忍耐が備わるからだ。
人生はとても神秘的であるが、きちんと見極めることなく他人について性急に判断を下す習慣のある人は、それを理解できない。・・・
⭐️他人に見る自分の姿
・・・ある心理学者が、愛と憎しみについての研究を行った。学者は、大学の十五名から成るクラスに対して、クラスメートの中で憎まれて当然だと思う人の名前の頭文字を三十秒以内に書き出すようにと言った。
ある若者は、誰の名前も書くことができなかった。他の学生たちは、数名の名前を書き出した。
一人の学生は、書ける限り多くの名前を書き出した。
研究の結果は、非常に驚くべきものだった。
嫌いな相手の名前を多く書き出した学生たちは、他の学生からも嫌われているという結果になったのだ。最も素晴らしく意味深い発見は、誰も名前を書き出さなかった学生は、誰からも名前を書かれなかったということだ。
人が人生という道のりで出会う相手は、自分の鏡であることがよくある。私たちは、自分の姿を他人の中に見つけることはないだろうか❓
自分の中に憎しみがあると、他人がその憎しみに値すべき人間に感じられないか❓
その憎しみ自体が、憎むべき人を作り出し、生み出してしまう。そしてこれらの創造物や発明品には、目的がある。
憎むべき相手がいるお陰で、自分自身の中にある憎むべき自分を見なくて済むからだ。
他人のことを針小棒大に騒ぎ立てると、自分の中にある大きなことが、ささいなことに感じ始めるのだ。
片方の目しか見えないという苦痛から逃れるには、二つの方法しかない。
自分の目を治すか、他人が両方の目を失ったと想像するかだ。もちろん、後者のほうが簡単そうに思える。
自分は何もしなくてもいいからだ。ただ想像するだけでよい。
私たちが他人に会う時、その人たちを自分の鏡だと考えるべきだということを覚えておいて欲しい。
他人の中に見るものは、自分たちの中にも存在しないか、まずは探ってみるべきだ。
そうすることで、日々の人間関係という鏡の中で自分探しに忙しくなる。
この世やその人間関係から逃げ出すことは、臆病であるだけでなく、無意味だ。
自分を探すために人間関係を使うのが、正しい方法である。
鏡なしに自分の顔を見ることが不可能なように、人間関係がないと自分を知ることも不可能なのだ。
他人という形の中で、自分自身と絶えず対面しているのだ。
愛で満たされた心は、他人の中に愛を見出す。
こうした経験が頂点に達することで、最終的に神との対面へと導かれる。
この地球上で、地獄に暮らす人たちと、天国に暮らす人たちがいる。苦痛も喜びも、地獄も天国も、その大体は私たちの中に存在する。
そして私たちの中に存在するものは全て、外のスクリーンに映し出される。
この世界で目に映るものが死しかないという人もいれば、この宇宙の神聖さにおける永遠の美しさや調和を映す目もある。
つまり、外側に現れるものは、永遠でもなければ、人生の核でもない。私たちの内側なのだ。
この真実に常に目を向けることができる人は、外側の物事から解放され、内側に落ち着く。
喜びを経験しても苦痛を経験しても、憎しみを経験しても愛を経験しても、友とともにあっても敵がいても、
思考にこのことが常にあれば、結局のところ、喜びも苦痛も、敵も友も存在せず、そこには自分がいるだけだと気づく。
私が私自身の敵であり、私が私自身の友なのだ。・・・
いかがでしたでしょうか❓
このような感じで
60の物語が書かれています💕
私はものすごくうなずいてしまった❣️
まさに私がそうだったように(o^^o)笑笑
手放すことを手放す❣️
これには私も
目からうろこでした😊笑笑
自分の中にあるものが
全て外側に映し出される
わざわざ創り出される⁉️
状況だったり、出来事だったり、
出会いだったり・・・と。
何度も何度もやってくる❗️
外側ばかり見ていると・・。
本当に巧妙に複雑に
わからなくなっているけど・・・。
ある時ふと気がつく❣️
ひとつひとつだけど
自分の中をしっかり見ていこうと
思いました😊
本当は全て自分の内側が創り出した
外側の世界💕
私はどんな外側の世界を創り出したいのか⁉️
やっぱりここは
もも色の
愛の世界💕が良いなぁ〜とか。笑
私の中に
愛はあるのだろうか⁉️笑笑
でわでは今回はこの辺で❣️
いつもありがとうございます😊